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推し活とプロダクティブ#8 おじさん達の「オシャベリ」とプロダクティブ

「うん、そうだよね〜、まあ、無理はしないで」 ひたすらにうなずき、最後はこのコトバで締められる電話。   電話をかけたのは父、相手はパートナーが数年前に倒れてから 1 人で頑張る 80 代に近い義兄弟。 悪くはなってもよくはならないであろうパートナーの介護について、素人のおじさん達が話し合っても解決策が出てくるわけもなく … 。   毎回、ひたすらに聴き、うなずき、いたわりすぎない程度に言葉をかけ続けてきた父から義兄弟への電話。 解決を求めない、同じことが繰り返される、そんなオシャベリが苦手だったはずのおじさん 2 人のやりとりを聴きながら考えさせられることも多々。   そもそも、プライドの高い企業戦士だったおじさんがオチの見出せないオシャベリを繰り返すこと自体が珍しいわけで。 多分、相手がご近所のサロンでも地域の傾聴ボランティアでもダメで、社会を引っ張ってきた大人として認め合った相手だからこそ成り立つオシャベリ。   ひとりで家族の介護を抱えんだり、 SOS を出すのが苦手なおじさん達にとって、オシャベリできる誰かは生命線。 とはいえ、父と義兄弟の様な関係性をみなが持っているわけではなく、余計なお世話だけれど、関係性ももたない人はどうしたものかが悩ましい … 。   加えて、このオシャベリ、実は認知症になったパートナーとの毎日に折り合いをつけられない父にとっても大事な時間だったりする。 今まで困りごとを抱える知り合いがいても、礼儀として距離を置きがちだった父だけど、当事者になってからはオシャベリに耳を傾ける意味を理解できるようになったわけで … 。   だから、義兄弟に電話をかけたり、時にはちょっと高価なお弁当を手土産に片道 2 時間かけて会いにいったり。 そんな父の娘として嬉しいのは、義兄妹とのオシャベリ後の表情に余裕がみえること。   多分、認知症になったパートナーの変化にあたふたする夫ではない、頼られる大人でいられるから。 感謝され、頼られるのは、ジブンを取り戻す時間にもなっているのかな … 。   などなど、オシャベリに耳を傾けつつ感じる毎日。 おじさん、いや、おじいちゃん達のオシ...
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Cutting-edge Daily Life of Elderly #5 The Movie “104 Years Old, Tetsuyo Lives Alone”

 “The era of the 100-Year Life” is now becoming a common phrase, especially in Japan, but how many centenarians actually live in the country? The answer is 95,119 as of September 17, 2024*, more than a 620-fold increase in just over 60 years (153 centenarians in 1963). It means that Japanese centenarians can fill two major baseball stadiums.   The other day, I received an invitation to a movie preview. Drawn by the charming smile of the woman printed on the postcard, I decided to go see it. The movie “104 Years Old, Tetsuyo Lives Alone” is a documentary film about Ms. Tetsuyo Ishii. As some of you may know, she has been featured in newspapers and TV programs as a model centenarian; she has even published several books. It’s embarrassing to confess, but I knew nothing about her, so everything I saw in the movie was new to me.   Tetsuyo’s house is in a mountainous area surrounded by nature in Onomichi City, Hiroshima. The movie begins with Tetsuyo slowly walking backwar...

認知症の人の「くらし」を考える #1 希望のリレー国際フォーラムから

  2025年 2 月に東京で開催された「国内外の認知症の当事者がバトンをつなぐ 希望のリレー 国際フォーラム 2025 」で、 49 歳で若年性認知症と診断されたオーストラリアのケイト・スワファーさんの話を聞いた。 医師からは「これからは何もできなくなるので、仕事を辞めて将来に備えてください」と告げられた。しかし、スワファーさんは診断後、認知症当事者による権利擁護活動を開始し、認知症当事者として国連や WHO で講演を行い、博士課程で研究を続けている。 このように、認知症と診断されたときに「もう何もできない」と決めつけられ、社会とのつながりが断たれてしまうことを、「断絶処方( Prescribed Disengagement ) © 」と彼女は表現している。断絶処方によって、本人がもつ可能性が奪われないように、当たり前の「権利」の擁護に意識を向けたい。 また、彼女の話の中で、「リエイブルメント」が出てきた。 ILC チームで取り組んできた重要なテーマだ。リエイブルメントとは、本人のできることを活かし、対話の中でともに働きかけるアプローチである。従来の支援は「失われた能力を補う」ことに重点が置かれてきたが、リエイブルメントは「本人のこれまでの暮らしを大切に、できることを増やし、社会の中で役割を持つ」ことを目指している。 認知症の人が「支援を受ける側」ではなく、「社会の一員」としてつながり続けること、社会全体で「できることを活かし続ける支援」を広げていくことの大事さを再確認した大事な時間。 「希望を選べば、何だってできる( Once you choose hope, anything is possible )」という彼女の言葉に励まされ、どうすれば希望を選べる社会になるのか、自分ごととして、一歩一歩、考え続けたい。 ☆認知症介護情報ネットワークの HP で、「国内外の認知症の当事者がバトンをつなぐ 希望のリレー 国際フォーラム 2025  ~認知症当事者の声とチカラ、つながりを活かして、共生社会の推進を~」に関する資料・動画が下記に掲載されている。関心を寄せて頂いた方はぜひチェックいただきたい。 https://suishinin.jp/suishinin/suishinin_event/event_No6-2.php ...

イマドキシニアの日常生活#5  104歳、哲代さんのひとり暮らし

  「人生 100 年時代」という言葉をよく目にするようになりましたが、実際日本に 100 歳以上の方はどのくらいいるのでしょうか。 2024 年 9 月 17 日現在で、 95,119 人です(※)。 1963 年は 153 人でしたから、わずか 60 年間で 620 倍以上となりました。東京ドーム 2 つ分を満員にするほどの数ということになります。   先日、映画の試写のご案内をいただき、ハガキに印刷された女性の笑顔に惹かれて観に行った。映画のタイトルは「 104 歳、哲代さんのひとり暮らし」。そう、ご存知の方も多いかもしないが、人生 100 年時代のモデルとして新聞やテレビでも紹介され、書籍まで出ている石井哲代さんのドキュメンタリー映画だ。恥ずかしながら私は全く存じ上げず、何の予備知識もないまま哲代さんの暮らしぶりを拝見した。   哲代さんの住まいは広島県尾道市の自然豊かな山あいにある一軒家。映画は哲代さんが家から坂道を後ろ向きにゆっくりと一歩一歩降りるところから始まる。 「小学校の教員として働き、退職後は民生委員として地域のために尽くした。 83 歳で夫を見送ってからは一人暮らしで、姪や近所の人たちと助け合い、笑い合いながら過ごしている。」 チラシのキャプションにはそんな風に書かれているが、いやいや、この 2 行では収まり切れないほどに「生」をまっとうしている哲代さんがそこにはいた。   映像に映る哲代さんはとにかく明るい。いつも笑っており、感謝をしている。その理由を尋ねられた場面では、「そりゃぁ・・・もう・・・そうないとせにゃあ、生きていかれませんもの。あればー、こればーいうて苦労、苦労、背負うても、解決できんことは、まあ前向きに考えた方がええかな思うて。はたから見たら、あの人バカじゃあるまいか、あんなに情けないのにケラケラしよる思うてかもわかりませんけど、そう思われても仕方がないほど、ケラケラするんですよ。沈んでも、どうにもならんことじゃけえね。」港の堤防に腰掛け、海を見ながら話していた。 104 年間、それはそれは辛いことや悲しい事が数多くあっただろう。それをいくつも乗り越えたが故の明るさだということが映画が進むにつれて分かってきた。   哲代さんが小学校の教員...

Supporting my fav seniors#7 "The Usual” and Productivity

 One day, my father came home from a convenience store, with a big smile and two pieces of cake that looked a bit pricier than usual: “I’ve heard that this new chocolate cake is a collaborative work with a famous patisserie.”   “Hmm…my stomach isn’t feeling well, (so I don’t want it,)” replied my mother, who lives with dementia. In the past year or so, whenever she feels down, Mother not only becomes indifferent but also keeps taking stomach medicine.   Being a sweet bean paste lover, Father usually gets a big bag of cheap, discounted Japanese sweets. He must have bought this pretty, and a bit expensive, chocolate cake at the convenience store imagining the happy face of his wife. My heart ached as I put myself in his shoes.   Since Father is a regular customer at the store, he may have had a conversation with store staff like this: “Wow, Western sweets today? What’s the occasion?” “These are for my wife,” “How sweet of you!” He must have brought th...

推し活とプロダクティブ#7      「いつもの」とプロダクティブ

「このチョコレートの新作スイーツ、有名なお菓子屋さんとのコラボなんだって」 と、少し高めのお菓子を二つ、嬉しそうにコンビニから買って帰った父。   「ふーん、胃の調子が悪いから(だからいらない)」 と、この一年は気持ちの落ち込みの波がくると無関心になるだけではなく、胃腸薬を飲み続ける認知症の母。   いつもは、たくさん入っている格安のどら焼きのお値下げ品なんかを買ってくるあんこ好きの父。 そんな父が母の喜ぶ顔を思い浮かべ、コンビニで高級チョコが挟んであるオシャレな、少し高いスイーツを買っている姿を思い浮かべて、胸が切なくなってしまったワタシ。   いつも行くコンビニなので、もしかしたら「今日は珍しく洋菓子なんですね〜」、「うちの奥さんにお土産なんです」、「お優しいですね〜」なんて会話があったのかもしれない。 そんなワクワク感と一緒に持ち帰ったスイーツなのに、母はつれない反応。   無関心になるのは認知症の症状だからしようがない、父もわかっているはずだけれど、わかっていても辛いはず。 小さなことだけれど、そんな小さな辛いことがジワリジワリと近くにいる人の心を蝕んでいくのかもしれない … 。   そんな父の背中を眺めながら思い出すのが、「認知症になった家族を介護する自分、そうじゃなくいられる場もあるから生きられる」という男性介護者の言葉。 土いじりが大好きなその方は、週に一回の数時間だけ近所で畑を仲間と耕し、できた野菜をご近所にお裾分けして喜ばれているという。   多分、今の父に必要なのも、母を支える以外の自分でいられて、誰かから必要とされる場。 近すぎるとあえて伝えなくなる「ありがとう」や「あなたがいるから」をあえて声にだして伝えてもらえる場。   日本では介護する家族が想いを話せる場や、オレンジカフェのように認知症の本人も一緒に参加できる場も増えてきているけれど … 。 多分、それだけでは辛くなってしまうのかな … 。   これから意識して増やさないといけないのは、本人や家庭の事情を周囲はうっすらと知っているけれど、あえて介護の話なんかをしない、そんな場や関わりなのかな … 。 新たに場やつ...

Cutting-edge Daily Life of Elderly #4 Veggies at Minami

 Japan has 22,380 farm stands and farmers’ markets, with total annual sales reaching 1,087.9 billion yen, according to the 2022 Comprehensive Survey on the Sixth Industrialization by the Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries. These places not only help increase producers’ income but also play a role as community hubs, enabling people to gather and socialize.   I live in Kawasaki City, Kanagawa Prefecture, which is only 20 km from central Tokyo but has as many as 184 farm stands. A growing number of people in the city have given up their farmland for inheritance and other reasons, but many still keep working hard as farmers. Indeed, there are four or five farm stands within walking distance of my house. My favorite stand is called “Minami,” located near a waste collection site and only a two-minute walk from my house, where you can buy a variety of vegetables and flowers with a 500-yen coin.                At Minami, o...