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2月, 2025の投稿を表示しています

イマドキシニアの日常生活#5  104歳、哲代さんのひとり暮らし

  「人生 100 年時代」という言葉をよく目にするようになりましたが、実際日本に 100 歳以上の方はどのくらいいるのでしょうか。 2024 年 9 月 17 日現在で、 95,119 人です(※)。 1963 年は 153 人でしたから、わずか 60 年間で 620 倍以上となりました。東京ドーム 2 つ分を満員にするほどの数ということになります。   先日、映画の試写のご案内をいただき、ハガキに印刷された女性の笑顔に惹かれて観に行った。映画のタイトルは「 104 歳、哲代さんのひとり暮らし」。そう、ご存知の方も多いかもしないが、人生 100 年時代のモデルとして新聞やテレビでも紹介され、書籍まで出ている石井哲代さんのドキュメンタリー映画だ。恥ずかしながら私は全く存じ上げず、何の予備知識もないまま哲代さんの暮らしぶりを拝見した。   哲代さんの住まいは広島県尾道市の自然豊かな山あいにある一軒家。映画は哲代さんが家から坂道を後ろ向きにゆっくりと一歩一歩降りるところから始まる。 「小学校の教員として働き、退職後は民生委員として地域のために尽くした。 83 歳で夫を見送ってからは一人暮らしで、姪や近所の人たちと助け合い、笑い合いながら過ごしている。」 チラシのキャプションにはそんな風に書かれているが、いやいや、この 2 行では収まり切れないほどに「生」をまっとうしている哲代さんがそこにはいた。   映像に映る哲代さんはとにかく明るい。いつも笑っており、感謝をしている。その理由を尋ねられた場面では、「そりゃぁ・・・もう・・・そうないとせにゃあ、生きていかれませんもの。あればー、こればーいうて苦労、苦労、背負うても、解決できんことは、まあ前向きに考えた方がええかな思うて。はたから見たら、あの人バカじゃあるまいか、あんなに情けないのにケラケラしよる思うてかもわかりませんけど、そう思われても仕方がないほど、ケラケラするんですよ。沈んでも、どうにもならんことじゃけえね。」港の堤防に腰掛け、海を見ながら話していた。 104 年間、それはそれは辛いことや悲しい事が数多くあっただろう。それをいくつも乗り越えたが故の明るさだということが映画が進むにつれて分かってきた。   哲代さんが小学校の教員...

Supporting my fav seniors#7 "The Usual” and Productivity

 One day, my father came home from a convenience store, with a big smile and two pieces of cake that looked a bit pricier than usual: “I’ve heard that this new chocolate cake is a collaborative work with a famous patisserie.”   “Hmm…my stomach isn’t feeling well, (so I don’t want it,)” replied my mother, who lives with dementia. In the past year or so, whenever she feels down, Mother not only becomes indifferent but also keeps taking stomach medicine.   Being a sweet bean paste lover, Father usually gets a big bag of cheap, discounted Japanese sweets. He must have bought this pretty, and a bit expensive, chocolate cake at the convenience store imagining the happy face of his wife. My heart ached as I put myself in his shoes.   Since Father is a regular customer at the store, he may have had a conversation with store staff like this: “Wow, Western sweets today? What’s the occasion?” “These are for my wife,” “How sweet of you!” He must have brought th...

推し活とプロダクティブ#7      「いつもの」とプロダクティブ

「このチョコレートの新作スイーツ、有名なお菓子屋さんとのコラボなんだって」 と、少し高めのお菓子を二つ、嬉しそうにコンビニから買って帰った父。   「ふーん、胃の調子が悪いから(だからいらない)」 と、この一年は気持ちの落ち込みの波がくると無関心になるだけではなく、胃腸薬を飲み続ける認知症の母。   いつもは、たくさん入っている格安のどら焼きのお値下げ品なんかを買ってくるあんこ好きの父。 そんな父が母の喜ぶ顔を思い浮かべ、コンビニで高級チョコが挟んであるオシャレな、少し高いスイーツを買っている姿を思い浮かべて、胸が切なくなってしまったワタシ。   いつも行くコンビニなので、もしかしたら「今日は珍しく洋菓子なんですね〜」、「うちの奥さんにお土産なんです」、「お優しいですね〜」なんて会話があったのかもしれない。 そんなワクワク感と一緒に持ち帰ったスイーツなのに、母はつれない反応。   無関心になるのは認知症の症状だからしようがない、父もわかっているはずだけれど、わかっていても辛いはず。 小さなことだけれど、そんな小さな辛いことがジワリジワリと近くにいる人の心を蝕んでいくのかもしれない … 。   そんな父の背中を眺めながら思い出すのが、「認知症になった家族を介護する自分、そうじゃなくいられる場もあるから生きられる」という男性介護者の言葉。 土いじりが大好きなその方は、週に一回の数時間だけ近所で畑を仲間と耕し、できた野菜をご近所にお裾分けして喜ばれているという。   多分、今の父に必要なのも、母を支える以外の自分でいられて、誰かから必要とされる場。 近すぎるとあえて伝えなくなる「ありがとう」や「あなたがいるから」をあえて声にだして伝えてもらえる場。   日本では介護する家族が想いを話せる場や、オレンジカフェのように認知症の本人も一緒に参加できる場も増えてきているけれど … 。 多分、それだけでは辛くなってしまうのかな … 。   これから意識して増やさないといけないのは、本人や家庭の事情を周囲はうっすらと知っているけれど、あえて介護の話なんかをしない、そんな場や関わりなのかな … 。 新たに場やつ...