スキップしてメイン コンテンツに移動

イマドキシニアの日常生活#5  104歳、哲代さんのひとり暮らし

「人生100年時代」という言葉をよく目にするようになりましたが、実際日本に100歳以上の方はどのくらいいるのでしょうか。2024917日現在で、95,119人です(※)。1963年は153人でしたから、わずか60年間で620倍以上となりました。東京ドーム2つ分を満員にするほどの数ということになります。

 

先日、映画の試写のご案内をいただき、ハガキに印刷された女性の笑顔に惹かれて観に行った。映画のタイトルは「104歳、哲代さんのひとり暮らし」。そう、ご存知の方も多いかもしないが、人生100年時代のモデルとして新聞やテレビでも紹介され、書籍まで出ている石井哲代さんのドキュメンタリー映画だ。恥ずかしながら私は全く存じ上げず、何の予備知識もないまま哲代さんの暮らしぶりを拝見した。

 

哲代さんの住まいは広島県尾道市の自然豊かな山あいにある一軒家。映画は哲代さんが家から坂道を後ろ向きにゆっくりと一歩一歩降りるところから始まる。

「小学校の教員として働き、退職後は民生委員として地域のために尽くした。83歳で夫を見送ってからは一人暮らしで、姪や近所の人たちと助け合い、笑い合いながら過ごしている。」

チラシのキャプションにはそんな風に書かれているが、いやいや、この2行では収まり切れないほどに「生」をまっとうしている哲代さんがそこにはいた。

 

映像に映る哲代さんはとにかく明るい。いつも笑っており、感謝をしている。その理由を尋ねられた場面では、「そりゃぁ・・・もう・・・そうないとせにゃあ、生きていかれませんもの。あればー、こればーいうて苦労、苦労、背負うても、解決できんことは、まあ前向きに考えた方がええかな思うて。はたから見たら、あの人バカじゃあるまいか、あんなに情けないのにケラケラしよる思うてかもわかりませんけど、そう思われても仕方がないほど、ケラケラするんですよ。沈んでも、どうにもならんことじゃけえね。」港の堤防に腰掛け、海を見ながら話していた。

104年間、それはそれは辛いことや悲しい事が数多くあっただろう。それをいくつも乗り越えたが故の明るさだということが映画が進むにつれて分かってきた。

 

哲代さんが小学校の教員になったのは1941年、20歳の時。1年生を受け持った。その年、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった。朝学校に行くと教頭先生が慌てて朝礼台から「みなさん、大変です。戦争がはじまりました。」と告げたという。哲代さんは子どもたちを決して戦争に行かせてはならん、早く終わらせねばならんという思いで教壇に立っていたと話した。その子どもたちと同窓会を開くシーンがある。10名以上の当時の生徒が学校に集った。校庭での出迎えでは涙の再会!となるのだが、すぐに爆笑が起きる。

「先生!●●です。」「おー、大きゅうなったな。」「はい、88歳になりました!」「えー!!」

「先生、〇〇です!」「ん?わからん」「先生、僕は△△です」「わからん」

それもそのはず。80年以上ぶり。姿かたちが変わりすぎてしまっていたのだ。

教室に入って同窓会が始まるにあたっては、まず他界した生徒さんに向けての黙祷から。そして哲代さんが大きな声で出席をとる。話しているうちに当時の面影をみつけ、「あんたはよくおもらしをしていたな。しょっちゅうパンツを洗ってたわ。おもらしは男の子ばっかりだったな。」なんていう話も飛び出す。

 

同僚だった良英さんと26歳の時に結婚して尾道市の今の家に。長男の嫁であったが、子宝に恵まれず、今もなお日記に書くほどご先祖様たちに申し訳ないと悔いている。「すみません、すみません」という文字に心が痛む。産めよ増やせよ時代に子がないことの肩身の狭さは想像を超える思いだっただろう。それでも、哲代さんは一人になってから20年以上も先祖代々の家を守り続けている。外に出れば必ず腰をまげて一つ一つ草をとる。いつまでもいつまでも。「ご先祖様が残してくれた土地をきれいにしておかなくてはいけない」との思いからだ。体調を崩して入院しても「家に帰る」という強い思いでリハビリをして帰ってくる。

 

102歳から103歳、104歳と年を重ねるごとにできなくなることが増えても、家で暮らすことを諦めない。近くにいる姪のサポートを受けたり、介護サービスでヘルパーさんの力を借りたり、体調が悪い時は老健施設に入所したりしながらも自分の家で自分のペースで暮らすことを大切にしている。それを周りの人たちも理解し、尊重している。

目の前に住む姪は、哲代さんが入院中は毎日家の窓を開け、風を入れている。必ず哲代さんが戻ってくると信じているのだ。近所の人から一緒に住んであげたらいいじゃないかと言われることもあるが、そうすると哲代さんが気を遣う。そしてそれを知った姪がさらに気を遣い、またさらに哲代さんが気を遣うといった具合に窮屈になってしまう。今のような距離感がちょうどいいのだといっていた。

哲代さん本人も、一人暮らしだがひとりではないと言っている。「みなさんに助けていただいて生かされている。ありがたい、ありがたい」と常に感謝の言葉をかけている姿があった。

 

親族が集まったシーンでは、「私は認知症になるのが怖いから100歳までは生きたくないわ」

1人が言うと、「私も認知症が怖い。みんなに迷惑かけたくない」という人もでてきた。すると、哲代さんは「そんなこと言うたって、私はあっという間に気づいたら100歳になっていた。あんたらだってちーっと寝てる間に100歳になっちゅうよ。」と笑い飛ばした。心配したって仕方ない。今を生きなさい。そんな哲代さんのメッセージだったように思う。

 

家の片づけ・整理整頓がうまくできなくなってもいい。約束を忘れてしまうことがあってもいい。ちょっとくらい味噌にカビが生えていたって気にしない。包丁が黒くさびているのは自分と同じように年を重ねた証拠。ガス台が危なければIHに取り換える。だしをとったイリコだってたんぱく質だから全部食べちゃう。足が痛くなって動きにくくなっても嘆かずに、「今まで100年以上もよう頑張って動いてくれたな。」とほめてあげる。

 

「のんきのんきで100年がすぎました。生きとるからこそできることがいっぱいですよ。友達とも話ができるし、花も摘まれるし。うららかな日が続く100歳はうれしいです。ありがたい人生です。「でした」言うたらいけん。「ing」でいきましょう。」

シニアカーを颯爽と運転して近所の人たちに声を掛けつつ、今日も哲代さんは笑って生きている。

 

お時間がある方は是非、哲代さんに会いに映画館へ足を運んでみてください。

(鹿嶌真美子)

 

2025年4月 シネスイッチ銀座ほか全国順次公開

問い合わせyurisan@eurus.dti.ne.jp/ TEL: 090-3335-9582

ナレーション リリー・フランキー 監督・編集 山本和宏

 

※厚生労働省プレスリリース

https://www.mhlw.go.jp/content/12304250/001306744.pdf



 


コメント

このブログの人気の投稿

Supporting my fav seniors #4 Being Productive Can Take Many Forms

 “My 90-year-old mom lived in a care home, and she was losing strength and energy. So I asked her if there’s anything she’d like to do. What do you think she said?” I was asked this question by Ms. C, the representative of an organization helping people find Ikigai (meaning and purposes of life), who also provided support for her mother.   What came to my mind was the image of my grandfather a few days before he passed away, mumbling “I want to eat eel at the XX restaurant in Nihonbashi.” It turned out that Ms. C also expected a similar response like “I want to eat my favorite XX.”   “But I was wrong. She quietly said, ‘I want to work’.” Ms. C told me that such conversations with her mother had led her to develop a place for people to stay productive as they age. I nodded in total agreement, but…   This conversation also reminded me of the words by a participant in an Ikigai class I taught; it was a woman in her late 70s. She whispered to me: “Wel...

推し活とプロダクティブ#11 鯉が紡ぐプロダクティブ

桜の季節が終わってしばらく経った頃から街に現れるのが鯉のぼり。 簡単に言ってしまえば、子どもの成長を願って、布に描かれた鯉を庭や玄関先にぶら下げるという江戸時代からの慣習。 江戸時代の武士の家では、男の子が生まれたら、オーダーメイドで作った 2 メートル超えの鯉のぼりを贈るという習慣もあったとか。 今や、すっかり簡略化され、保育園で子どもが作ってきた紙製の鯉のぼりや、百均で売られている小さなものが飾られることも増えている。 それ以上に増えているのが、子どもが成人して飾られなくなった鯉のぼりを街で集め、川や公園広場で飾るという動き。 200 以上の鯉のぼりが空に泳ぐ姿は、子どものいない人にも元気を与え、観光名物になっている街もあったりする。 それを真似したわけではないけれど、ワタシの住む街ではじめたのが、お店や高齢者施設や地域の掲示板で鯉のぼりを飾ること。 コロナ禍、みなが元気をなくし、孤立感が強まるなかで、掲示板に鯉のぼりを飾りはじめたのがきっかけ。 ついでに、うちの鯉のぼり( 80 代バァバと 9 歳の孫で毎年、作り溜めてきた 10 匹以上の鯉のぼり)を中庭から、道路に面した玄関先に移動し、それをご近所にもお願いしてみたり。 目指したのは、お祭りなんかではなく、街を歩いていたら、そこかしこになんとなく鯉のぼりが泳いでいて、見つけた人がなんとなく笑顔になるくらいのこと。 そんな小さなことだったのだけれど、うちの鯉のぼりの前で立ち話する人が増えたり、デイサービスでシニアが作った鯉のぼりを窓に貼り付けてくれたり、店長が実家から大きな鯉のぼりを持ってきて店先に飾ってくれたり。 街にゆるやかな一体感が生まれたような、そんな変化が…。 コロナ禍の影響が薄まりつつある今も、掲示板に貼り付けられた小さな鯉のぼりを子どもたちが発見してニッコリ。 それを後ろから眺めるシニアたちが笑顔になるという光景が見られたり。 そんな鯉のぼりが創り出すゆるやかな一体感を眺めていて感じることが一つ。 世代間のつながりが大事って色々な場づくりが行われているけれど、これくらいのゆるやかな方が良いのかな…という自分なりの結論。 例えば、「登校中の子ども達が(デイサービスでシニアが作った鯉を窓に飾ってくれた)可愛い〜と喜んでいましたよ!」と、伝えた時の、デイサ...

推し活とプロダクティブ#5     一年の「コドク」とプロダクティブ

「わたしね、この時期があまり好きじゃないの、だって一年で 1 番コドクを感じるから」 毎年、年末に近づくと思い出すのがこの言葉。   言葉の主は、リーダーとまではいかないけれど、体操グループでいつも楽しそうな雰囲気で場を盛り上げる M さん。 10 年以上前にご主人を看取り、今は、体操グループ以外にも色々な活動に参加するアクティブな 80 代。   お子さんの話はあまり聴いたことがないのだけれど、遠くに住んでいるのか、すれ違いがあるのか、あまり行き来はない様子。 それを補うわけではないけれど、「日常で頼れるのは近くの仲間」というのが一人暮らしを続けるための M さんの持論。   ゆるやかに多様な 100 のつながりを自分の周りにつくることが大事。 誰かの 100 のつながりの百分の一になることも大事という百人力の研究をしているワタシにとって M さんはお手本の様な人なのだけど … 。   そんな M さんの口から一年のコドクの話をうかがった時には、正直なところ、かなりビックリした。 いつも居場所になっているコミュニティスペースはお休み、仲間もそれぞれのお家の行事で忙しくて誘いづらい、というのがコドクの原因。   街を歩けばクリスマスやお正月ムード、テレビを観れば里帰りに新幹線を待つ家族の楽しそうなインタビュー。 せめてもとおせちの黒豆を煮たのだけど、食べているうちに、あっ、私、一人なんだ … と悲しくなった … とポツリ。   確かに、地域のサロンなどをやっている人も子ども家族が来たりで、年末年始はほとんどの場が活動をお休みするわけで。 遠慮と、ひとりぼっちを知られたくないという多少の見栄もあって、仲間への電話も LINE も控えてしまったり。   そんな M さんのお話から考えはじめたのが、楽しいはずの年末年始に毎年のように襲ってくるコドクの和らげ方。 だって、日本もこれだけひとり暮らしが増えていて、誰もが直面する可能性のある課題だから。   たかだか 1 〜2週間の話だけれど、老いを感じることが増える毎日のなかで、毎年のように繰り返される負の影響はかなりなもの。 多分、ひとりでずっと生き...