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認知症の人の「くらし」を考える#2 ひとり暮らしをしながら認知症を生きる

認知症と診断されたあとも、日々の工夫を重ねながら、ひとり暮らし続けている本人の語りに耳を傾けるたびに、私は元気づけられる。そしてふと思う。私自身も、いつかひとりで暮らし、認知症になる可能性は十分にある。どのような生活上の課題に直面し、どのような工夫や支えがあれば、自分の望む暮らしを少しでも続けられるのか。それを考える上で、当事者の語りは私にとって、希望であり、学びでもある。

しかし一方で、「認知症だからやっぱり無理だよね」「もう仕方がないよね」と、暮らしそのものの選択肢が狭まってしまう現実もある。2024年に制定された「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」に、当たり前の権利としての「基本的人権」の尊重が明記される必要があったことからも、本人の希望が「認知症だから」という理由だけで叶えられないことは少なくない。

また、「ひとり暮らしを続けること」だけが最善であるわけではない。だが、在宅生活から施設への移行は、マイナスに捉えられることも多い。私はこれまで、本人が積み重ねてきた暮らしを大切にし、住み替えた先でもその人らしい生活が可能であることを、真摯に本人と向き合う専門職から学んできた。だからこそ、「どこで暮らすか」ということだけでなく、「どのように暮らすか」を問い続けることが、これからのケアには求められるのではないかと考える。

こんなことを考えながら、私や共著者の久保田さんと語り合う中で、本人や専門職から学んだことを自分たちでとどめておかず、多くの人に共有することの大事さにたどり着いた。

先月、出版した拙著『ひとり暮らし認知症高齢者の「くらし」を考える』は、「くらし」という言葉にこだわった。「くらし」とは、単なる日常生活の営みにとどまらず、英語で言う“Life”――命、生き方、価値観、つながりなどを含んだ多面的な概念である。認知症になってもなお続く、その人なりの生き方を支える視点として、この言葉を選んだ。

本書の出発点は、極めて素朴な問いである。

  • どのような思いでひとり暮らしを続けているのか。
  • どのような時に、ひとり暮らしがむずかしくなるのか。
  • 日々の生活で、どんな困難に直面しやすいのか。
  • どうすれば、できるだけ今の暮らしを続けられるのか。

これらの問いに向き合うなかで見えてきたのは、「認知症だから」「ひとり暮らしだから」と安易にあきらめるのではなく、「認知症になってからも」「ひとり暮らしであっても」、その時々で本人と支える人々がともに考え、暮らしの工夫を積み重ねていくことの大切さである。仮にひとり暮らしの継続が難しくなったとしても、住み替えた先で本人が自分なりに折り合いをつけ、「その人らしさ」を取り戻すことは可能である。

ひとり暮らし認知症高齢者へのインタビューを通じて、本人の視点から「日々の生活」がどのように営まれているかを描き出した。

久保田さんがインタビューした80代のトミコさん(仮名)は、長年連れ添った夫を亡くしたあと、子どももなく、ひとりでの暮らしを続けてきた。若いころは「絶対服従を求めた」厳しい夫に仕えながら、がまんを重ねてきた。一人になったいま、「喧嘩も叱られることもない。気楽なのよ」と微笑むトミコさんは、古い一軒家で庭を眺めながら、静かな日々を過ごしている。とはいえ、困りごとがないわけではない。「天井を見せてください」と突然やってきた業者を追い返したものの、その対応をめぐって近所の人との間にちょっとしたトラブルがあった。

「そういったことがあっても、つつましくても、この庭がある生活がいい」と、トミコさんは言う。我慢から解放されたいま、トミコさんは自分のもの忘れや老いの変化を感じつつも、ヘルパーを受け入れ、自分で生活に工夫をこらしながら日々を生きている。認知症を抱えながら一人で暮らすことを選んだトミコさんの気持ちに触れることができた。

本書では、本人の姿に加えて、ひとり暮らしが困難になるプロセスや、どのような生活課題に直面しやすいのかも丁寧に整理した。たとえば、健康管理の乱れや生命の危機、衛生状態の低下、経済的な困窮、対人関係の不調和など、多くの高齢者に共通する課題であるが、ひとり暮らしで認知症を抱える人にとっては、より複雑で深刻な問題となりやすい。それでも、本人や周りの人々の工夫や関わり方、地域の資源やサービスを上手く活用することで、タイトルにある「継続と限界のはざま」にありながらも、本人が望む暮らしをできる限り続けることは可能だと考える。

誰もが、認知症になる可能性がある。そして、その時にひとり暮らしである可能性も高い。そうした状況において、自分の望む暮らしを続けていくためには、今からの備えや心構えも重要である。この本が、多くの方にとって、自らの生き方や、身近な人との関わり方、地域のあり方を問い直す一助となれば幸いである。

日本福祉大学 福祉経営学部 中島民恵子(Taeko Nakashima

https://www.nfu.ne.jp/

 

※ひとり暮らし認知症高齢者の「くらし」を考える 継続と限界のはざまで

 クリエイツかもがわ社 中島民恵子・久保田真美 著 定価2,200円+税







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