先日、町内会の掲示板に貼られた訃報を見て衝撃を受けた。中学時代の同級生の名前が書かれていたのだ。間違いであって欲しい。急いでその彼と高校まで同じだった友人に確認した。
まさしく本人であった。病死だったとのこと。生徒会長だった彼とは中学卒業以来、40年以上も会っていない。友人と呼ぶには少し遠い存在。でも、わずかな思い出の中の彼はいつも笑顔で好ましい青年だった。
・・・そうか。同級生が亡くなる年齢になってきたのか。そんなことを実感した出来事だ。
今放映されているドラマの中で、主人公の母親が『長生き貯金』を行っているという話があった。
母親は永六輔さんのファンで、彼の著書にあった「年寄りが仲間と一緒に貯金をする」というアイデアを、同世代の女子友の会で実践していた。
メンバーは38人で、毎年ひとり1万円を共同口座に貯めていく。
でも旅行に行ったりおいしいものを食べたりするために使うものではない。
それは、「使わない」貯金。
年間38万円、10年で380万円、20年で760万円、30年たつと1000万円を越える。
その間に少しずつメンバーが亡くなり、減っていく。そして最後まで生き残ったひとりが全額をもらえる仕組み。80代になった今は34人。
「死ねないわよー、死んでたまるかー。単純に先に死にたくない、これ大事。先月もお葬式で皆と会って、ひとり減ったー、ラッキー!みたいな顔して。年取るとね、『あー、あの人も死んでしまった、淋しい』って気持ちばかりになるでしょ。でも私たちは違うの、ひとり減った、OK!」
何が何でも生き残って1000万もらうことを励みに生きていけるのだという。
永六輔さんらしい、なかなかユニークでブラックなアイデア。
これには賛否両論があった。ファンキーで格好いい!!という意見も多かったように思う。
私は・・・考え方は面白いが、「否」かな。
まず、共同名義の口座が日本では作れない。誰の名義にするかで揉める。通帳の管理は誰がするのか。名義人が先に亡くなってしまったら?口座が凍結されてしまうがどうするのか。税金はどうなる?認知症になっていたら?深刻な病気になっていたら?
なーんて現実的な疑問もあるが、とにかく「使わない」というのが性に合わない。
ずっと昔、30代の頃に着付け教室の卒業生仲間とグループを作って月に2回のペースで着付けの自主レッスン会をしていた。みんなで「月謝」と称して積み立てをし、誕生日会やクリスマス会、ビアガーデンや旅行などにそのお金を使っていた。そうそう、結婚や出産のお祝いもそこから出していたのだ。
会計管理は1年ごとの持ち回り。おままごとみたいだったが、楽しく過ごした。
そもそも、80代になって1000万円もらっても使い道がない。胃袋も小さくなってそんなにたくさん食べられないし、何日も家を空けるような旅行も行きたくない。車も運転しなくなっているだろうし、洋服や靴も鞄もそんなにはいらない。遺す人もいない。
だったら生きている間に大好きな人との時間に使いたい。10年ごとに380万円を使って豪勢にみんなで遊ぶ。メンバーが減ってきても減ったなりに貯まった額で遊ぶ。
1人だったら食べられないごちそうも、みんなとだったら食べちゃうかも。おしゃれもしちゃうかも。
先日亡くなった中学時代の同級生の葬儀に参列した友人からのメールには次のように書かれていた。
「悲しかったけど、そこで懐かしい友人に会うこともできた。みんな大人になっていたけど、昔みたいにふざけ合ったりしたらすぐに当時に戻れて、優しくて。いろいろあって心が苦しかったりあちこち痛かったりしても、みんなだったら許してくれるなって思えた。絶対に元気でいよう。それで、またみんなで会おう。大好きだよ。」
胸が、キュッとなった。
若い時にはできなかったささやかな贅沢を仲間と時間を共有しながら楽しみたい。
そうすれば、先に逝っても残されても、悔いがないような気がする。
私なら・・・そんな風に過ごすかな。
<鹿嶌 真美子>
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